マレーシアに来て半年ほど経った頃から、私は心に漠然とした焦りを抱えていました。39才で日本からマレーシアへ、夫の転職に付いてきた私。与えられた配偶者VISAでマレーシアで働くことは違法です。日本で細々と続けてきたクリエイターの仕事も、その多くを手放さなければなりませんでした。
また当時の私は英語が全く話せない上、大学を中退しているので学歴がなく、こちらの現地採用を勝ち取ることが難しい状態でした。
(実力があれば…とおっしゃる方がおられますが、海外の方が圧倒的に学歴社会でした。海外就職をお考えの方は頑張って大学卒業しましょう、これゼッタイ)。
いつ帰国するかわからない、年齢的に再就職は現在でも難しい年齢…こういう状態を『積んだ』と言うんだろうなと、焦りだけが増す日々でした。
当時、新しい環境でキャリアを積み上げる夫と新しい学校でどんどん成長する娘は活き活きとマレーシアと繋がってゆき、その傍らで私は環境に慣れることに必死!持病の関係で運転免許が持てない私の行動範囲はすこぶる狭く、Twitterで人とつながることが唯一孤独を解消する方法でした。
きっと、心の状態が体に出るんでしょうね、来馬しての2年間は様々な形で体調を崩しました。入院を繰り返しては、自信を失っていき…当時はわからなかったけど、必死にその日その日を繋いで生きていたのだと今は思います。
毎日床掃除をする、シーツやまくらカバーを三日に一度替える、お花を飾る、散歩する道すがら人とあいさつを交わす…。仕事をすることは今不可能という現実を受け入れつつ、少しずつ自分らしい普通の日常を手にできたのは、マレーシアに来て3年目。そう3年もかかりましたわ、長かったな〜。
そんなある日、私はボランティアイベントに参加、その後ちょっとお茶をしない?と一人の参加女性に誘われました。その方は結婚以来、そのほとんどを旦那さんの海外転勤に帯同されて世界各国で暮らしてきた方でした。
私のマレーシアでの生活や子育ての悩みをうんうんと聞いて『わかるわ~(笑)』と言ってくださって、また何か国も渡り歩いていらした経験は私の想像をはるかに超え(銃を構えられたら黙ってお金を置いて相手が去るのを待つのよ。その時はベビーカーを押してたのだけど怖かったわ。今は笑って話せるけど(笑)など!)私はすっかりその方のお話に魅了されました。
そんな中、話の流れで
「あなたは何のお仕事されていたの?」
と聞かれ、私の心はチクッとしました。マレーシアに暮らして以来、仕事の話を過去の話としてすることがつらく、実は避けていたのです。
ただ私の職歴は日本でも世界でも驚かれること100%なほど紆余曲折あるので(外国の方のほうがかなり興奮気味に驚かれる(笑)。またそれは別の機会に書くとして)、その方もご多分もれなく表情豊かに私の話を聞いてくださいました。
そしてその方は
「時代が変わってきたのね、本当に良かった。それが確認出来て。」
とおっしゃったのです。
「どうしてそう思われるのですか?未だに帯同の家族はキャリアを絶たれる場合が多いです。女性が我慢する場面はまだまだ日本社会では多いと思うのですが…。」
と私が返すと
「私の時代はね、女の人に総合職がなかった時代だったのよ。あなたに想像つくかしら?」
と少し微笑むと、そこからその方の物語をお話ししてくださいました。
「私と夫はね、大学の同級生なの。夫は私のレポートを盗み見してなんとか卒業できるくらいの成績。私は大学に残らないか?と誘われるほど自分で言うのもなんだけど、かなり上位の成績だった。」
「でもね、就職活動になって、書類が通るのは夫ばっかり。同じ会社を受けてみても私は書類で落とされた。電話で一般職応募に間違いないか、事務職だったら即採用とはっきり言われたこともあったわ。」
「一方で夫はどんどん名のある会社から誘いがきて…大学名だけで書類は通ってたんだと思うわ(笑)。そんな現実に打ちのめされたくなくて、私は東京じゃない、ほかの地域の会社にもどんどん履歴書を送り、ようやく地方の出版社から一般職で内定をもらったの。せっかく受かったのに親は泣いたわよ、そんな会社聞いたことがない、そんな会社に入れるために有名大学入れたんじゃない、ってね。」
「でも私は嬉しかった。すぐに暮らしたことのないその地域へ引っ越すことを決めたの。でも夫は良い顔をしなかった。遠距離恋愛になるし、それに僕はいずれ海外に赴任することになるってね。でもこの時の私は夢が叶って、自分の未来、前しか見えてなかったのよ。」
そう言ってから本当に嬉しそうにされていた表情が少し曇りました。
「夢の職場は、描いていた場所とは程遠かったわ。一般職で入社した女性は私ただ一人。しかも会社創設以来初。こう言っては何だけど、学歴も私が一つ頭抜けした感じ。そこで私は営業職に就いたの。希望は編集だったのだけどね。同期は男性のみ。事務職に女性はいたけれど、パートの方だけ。初日から私にはお茶くみやコピーを頼む人が続出してね。ほかの同期には頼まないのに。あからさまに嫌がらせが始まった。それでも人より頑張れば、契約が取れればって頑張ったわ。意地でお茶くみもコピーも断らなかった。でもね、頑張れば頑張るほど、会社の人と距離が開いていくのを感じたわ。」
「それでも初めて契約が取れたときには嬉しくてね。クライアントさんからは女性の営業をよこしてという方も現れた。そして一年経った時、二人目の女性の総合職が入ったの。この会社を変えていけると思った。」
「そんな時にね、」
「夫の海外転勤が決まったの。」
あぁ。聞いていて想像がついていたとは言え、この言葉に心が痛みました。
「夫からしたら出世コースに乗ったも同然の移動、行ったらもう5年は帰れないと。あなたたちと違って、当時恋愛の自由さも、まだ今ほどではなかったし、何よりもう、アレしてしまっていたのよ、私達(笑)。真面目だったのね、当時の私。悩んだ、悩んだけれど、道は1つだったのよ。」
「会社に報告した時のことはもう忘れられないわ。同期数人と後輩の女の子は残念がってくれたけど…」
「直属の上司、あの時言葉では残念って言ったけど、ホッとした顔したのよね。」
「ああ、この人、私がいてきつかったんだなって。そう思われていたこととそんなところに後輩を置いていくこと、なんだか色んなむなしい気持ちを抱えたまま、私は夫と海外へ行ったの。そこからはすぐ妊娠して三人の子どもを育てるのに必死だった。4か国も転勤したしね(笑)。」
「でもたまに、夫の仕事やその世界を垣間見る時、思ってしまっていたのよ、私だったらもっと上手くやれるのに、と。そして海外で子育てするからこそ、表向きだけでも男女平等でカッコよく働いている外国人のママ友を見るわけじゃない。私は英語だけでなくロシア語も出来たから、たまに夫の仕事を頼まれて通訳してもボランティア。夫の後任に女性がくることはついぞ今までなかったわ。」
そこまで話されるとハッとされて
「ごめんなさいね、こんな話。」
と言われので、私は慌てて
「いえ、聞けて嬉しいです。」
と言い、
「でもどうして私の話を聞いて『良かった』なのですか?」
と聞きました。
すると
「だって、あなた何回もお仕事変えてらっしゃるでしょう?失礼だけど大学を中退されても、私の夢であった書籍に関わる仕事に就けた。結婚したあともお仕事できたのよね、しかもフリーランスで。そしてその間にたくさんの人と恋をしてきた。確かに日本はまだまだ男女平等ではないけれど、私達は少しずつ進化してるのよ!私が初の総合職になったあの日から!」
とその方は嬉しそうに私の手を握りながら、そうおっしゃられたのでした。
お会計をすませたあと、歩きながらその方がクスクスと笑われたので
「どうしたんですか?何か思い出し笑いですか?」
と尋ねると
「違うの、あなたの話を聞いてね、私やってみたいことを実現できるような気がしてきたの。」
と言われるその方に
「え、なになに、なんですか?」
と私が聞くと、耳まで真っ赤になりながら
「夫がもう少しで定年じゃない?
実はね、私、コンビニでバイトしてみたいの。」
と答えられたのです。
びっくりした私が
「え~~~~?それこそバイト先の店長さんが履歴書みてひっくり返りますよ?」
と返すと
「何を言ってるの、けいこさん。コンビニは陳列、料理、コピー機のメンテ、トイレの管理、荷物を受け取り出荷して、お金の管理、売り上げを予想して発注まで。色んな事が出来ないと働けないのよ。それにね、今からは海外の人たちの利用が増えるし、私、役立てると思うの。」
そして少し小さな声で
「それに、私考えたら全然職歴がないのよ、でも、そんな私でも日々やってきたことで役立てそうな気がするの。」
「それにね、あなたと話して気が付いたの。私は男女平等と偉そうに語りながらね、学歴で他人も自分のこともはかってたのよ。学歴から自分のプライドを崩せてなかった、でもそれが唯一自分のプライドを満たせるものだったの、何十年も。時代は変わっていたのにね、変わっていなかったのは私のほうよね。やっとやりたいこと、やりたいって言えたわ。」
そう言って少し黙られると、ハッと私を見て気を遣うようにおどけながら
「何より天国にいったら親がひっくり返りそうでしょ?そういうことまた1つ持っていきたいのよ、よく頑張ったねだけじゃなくてね。私が海外にばかりいて、親に心配しかかけなかったから、私の人生楽しかったよって言いたいのよ。」
そう嬉しそうに話された横顔があまりにも美しくて、思わず心の中でシャッターを切っていました、この時を忘れたくないな、って。
「けいこさんも、諦めちゃだめよ、道はね、ずっと繋がってるのよ。あなたの道と私の道が繋がってたみたいにね。」
その言葉に
「〇さんもですよ!」
と返せたその時、マレーシアに来て良かった、と私は心からようやく思えたのでした。