千代さんと高松さんの見た桜
東京での十数年、私はなるべく駅近の物件を選んで暮らし、仕事帰りに名も知らぬご近所さん達と1杯飲むのが日々の楽しみ、そんな生活をしていた。それもあって、たまに話せるくらいの友達は欲しいな、と淡い幻想を抱いてここにも引っ越してきたのだが、大奥の洗礼による先制パンチのダメージはことのほか大きくて、引っ越し二日目にして行動は愚か、友達ができる想像をする気力すら1ミリも私に残らなかった。
が、夫の仕事がある以上、しばらくはここで生きていかないといけないのは事実。強烈なご近所の皆々様とは、程よく距離を置いて静かに生きていこう、私はそう心に誓っていた。
ただこの時すでに1つ問題が起こっていた。それはご近所さんと名乗る多くの方が、昨日自ら我が家に挨拶に来られたことによる『一番挨拶しなくてはならない同じ班のお宅へ引っ越しの挨拶が済んだのか、済んでいないのか、顔も名前も住んでる場所も一致しない引っ越したばかりの私には分からなくなったよ問題』である。
引っ越しの挨拶を渡したお家がある以上、渡さなかったお家があるのはまずい。昨日の時点ですでに予算額をとっくにオーバーしていたが、悩んだ末、私は9軒分のフルーツを追加で買って、渡す際に顔がわかればお裾分けと言い、わからなければタオルを足し、引っ越しのご挨拶だと言って渡すという作戦を立てた。フルーツを買いにいったスーパーで昨日私を助けてくれた忍びさんにすれ違い、挨拶をした。少し話しただけだったが、忍びさんのことが私は恐らくタイプで、話したいという衝動に駆られたが、私はそれをぐっと我慢した。その様子を察した忍びさんも挨拶だけして去っていた。1つ門が開いてしまえば、全てがなし崩し的に開いてしまう田舎システム。この場所以上に『ど田舎』で育った私はその恐ろしさをよく知っていた。
このミッションは手堅く手早く確実に終わらせると念を入れ、挨拶に回る前に町内会長さんのお家に伺い、同じ班の9軒の場所と名前を確認した。
町内会長さんは
『素敵なタオル、皆さん喜ばれてたわよ(笑)。良かったわね。』
とすでに過去形で言い、私は『だからそれは、どこのどの皆さんなんでしょうか~?』と脳内再生しながらも
『それは良かったです〜。』
と鉄壁の笑みを返した。
8軒回ったところで、やはり4軒は初対面だった。スマホどころか携帯も持っていない方もかなりいるこのご近所ネットワークが、文明の利器インターネットより早いことに改めて脅威を感じた。
2軒目に伺ったお宅では婦人会でお会いしたお嫁さんのひとりが出てこられた。フルーツとタオルを手渡し挨拶すると、やっぱりその場で中身を見て、そして小声で
『ごめんね、うち、お義母さんが昨日お宅に伺ったわよ。』
と苦笑いし、家の奥の様子を気にしつつ、タオルをそっと返してくれた。私は声に出さず両手を顔の前で合わせ、何度も頭を下げた。
最後に伺うのは後ろに暮らす一人暮らしのおばあちゃん『高松さん』に決めていた。最初に家を見学に来た際、家の向かいにある畑で作業をされている姿をお見かけしていたので、高松さんがうちに挨拶に来られてないことは分かっていた。本当は一番に伺いたかったが、町内会長さんの旦那さんの『おひとりだから、たまに声をかけてあげて。』という言葉が心に残っており、もし高松さんがお話されたい様子だったら、最初くらい少しお話をと思ったからだ。
高松さんのお宅は、池を中心に回廊のある平屋で、周りをぐるっと竹と木材、瓦で作られた高い塀が囲み、正面には格子戸つきの数寄屋門が建った立派な日本邸宅だった。畑に高松さんが居られないことを確認してから、私はインターホンを押した。間の伸びた電子音でバッハのメヌエットが流れた後、5分ほど応答がなく、あれ?出直そうかなと石段を降りようとした時、
『はい、どなた?』
とようやくインターホンから声がした。
『はじめまして、東京から引っ越して来ました○○と申します。』
と慌てて答えた私の声は少し裏返った。
すると、プツッとインターホンが無造作に切れ、再び5分ほど応答がなく私が門の前で右往左往していると、高松さんは玄関先にゆっくり歩いてこられた。
『ごめんなさいね、私、足が悪くて…早く歩けないのよ。』
と言いながら出てこられた高松さんは綺麗にパーマをあてたふさふさの白髪に、ケント・デリカットみたいに目が大きく見えるメガネをかけた、品がありつつ可愛らしい感じのおばあさんだった。高松さんは門の格子を開けると丁寧に私に向かって
『はじめまして、高松です。』
お辞儀をされた。
『こちらこそ…』
とまた慌てて頭を下げ挨拶をいい掛けた私は、高松さんのその手に包丁が握られていることに気がついた。
『はじめまして。○○です…。』
包丁を凝視して続けた私の声は急に小さくなって、高松さんはそんな私の様子に慌てて
『あ!あ〜あ〜、ごめんなさいね。これね、せっかくだからお野菜もってってもらおうと思ってね〜。あなたのお話は畑でお聞きするわね。』
と言ったあと、畑へ歩きだした。
ごめんなさいねと言われたものの、これが当たり前とばかりに包丁をフリフリ持って歩く高松さんの後を、私は少し距離を置いて歩いた。
15畳ほどの畑にはそれぞれの野菜がきちんと整備されて植えられていた。その様子に私は高松さんはきっちりされている人なんだろうなと思った。
一方で手に包丁を持つ高松さんの姿はなかなかシュールな光景だよなと思い、周囲の様子をうかがった。
畑に入ると高松さんはおもむろにしゃがんでキャベツを包丁で切り採り
『あら、なかなか大きいわ。』
と言いながら、私にそれを渡そうとした。
『ちょっとお待ちくださいね。』
と私は言うと、走って私は高松さんの家の玄関前に引っ越しの挨拶を置き、キャベツを受け取った。ズシッと中身の詰まった、本当に立派なキャベツだった。
次に高松さんは鈴なりに生っているスナップエンドウを手でちぎって、そのまま口にほおりこみ、
『うん、やっぱり食べ頃だわ』
と独り言を言うと
『あなた食べる分持ってきなさい、私一人で食べられる量には限度があるから、たくさん持ってて良いよ。』
と私にポケットに入ってたビニール袋を包丁を持った手で渡してきた。
危な!と戸惑う私に
『都会からのお嬢さんには口に合わんかもしれんが…』
とおそらく私の表情を勘違いして高松さんが言ったので、慌てて私は
『いえ、私は石川の農村で土を耕して育ちました。ありがたいです。頂きます。』
とキャベツを畑の脇におき、ビニール袋を受け取った。すると高松さんは驚いて
『あら〜ぁあ、あなた千代さんところの孫さんではないのね。こらまた失礼したわ〜。』
と言った。
実は昨日から訪ねてきたご近所さんから同じようにこの『千代さん』というお名前を幾度となく聞いていた。
『あの〜千代さんって前の…』
と話しだす私の言葉にかぶせるように高松さんは
『そうそうそう、あなたのお家のね、前の家主さんよ。この家に住んでいた人。』
と言いながら、畑脇の縁石によいしょと腰掛けた。
『で、あなた、何でここへ来なさったの?』
とやっと本来の挨拶らしい言葉を高松さんが言ったので、夫がこの地の学校で教鞭をとることになり、ここへ引っ越してきたことを話した。すると
『あら、うちの亡くなった主人も大学の職員だったのよ。あらそう、それはあなた大変だわねぇ。あなたは?あなたのお仕事は?』
と高松さんは言ったあと、
『あ、あら、ごめんなさいね、あなた昨日みんなから同じようなこと、たくさん聞かれたわよね。』
と苦笑いした。
『大丈夫です、仕事は自宅でできるライターなんですよ。』
と私が言うと、高松さんはまた私の言葉にかぶせるように
『ううん、いぅても、慣れない土地で暮らすのは誰でも、何もなくても、大変よね。想像力の無い言葉は人を傷つけるわ、本当にみんなが色々言ってごめんなさいね。』
と軽く頭を下げられたので、私は慌てて
『いやいや、本当に本当に大丈夫ですから。私の田舎も似たような感じで色々あって…』
と言いかけて、しまったと言葉を止めると
『大丈夫よ、私、子どもが居なくてね、ご近所さんとはお互いに昔から距離があるの。誰にも言わないわ。』
と高松さんは微笑んだ。
なんだか気まずくて話を変えようと私が
『千代さん、とは仲良かったんですか?』
と聞くと高松さんはあっさり
『ううん、全然。あの人はしつこかったけど、私は仕事で忙しかったし、いつも誘いを断ってたのよ。』
と言ったので、私はまた苦笑いした。
『千代さんにはお子さんが4人いて、子どもが出ていったあとも、上の部屋を大学生に貸して夫婦で学生寮みたいなこともしててね、ほ〜んと、おせっかいなお母さんの代表みたいな人だったのよ。』
私は家の柱の傷や手入れされた様子を思い出し、なるほどと納得した。
『あなたの借りたお家、前はね、塀で囲まれて立派な広いお庭があったのよ。』
と高松さんは言った。確かに見学の時に見た庭は荒れ果てていたが今より広かった。それを今の大家さんは塀を全て取り払い、半分に砂利を入れて駐車場に、半分を私達が畑に使えるよう土を入れ更地にした。
高松さんは少し懐かしそうに
『庭の真ん中に立派な桜の木があってね、それはもう見事だったの。近所の人がその季節になると、千代さんをみんな訪ねてね、縁側でお茶を飲んで花見をしたのよ。あの人、人が良いから、すぐ料理なんか出しちゃってそのまま毎回宴会になっちゃってね。その度にほんとにうるさかったわ。』
と言い
『高松さんも、千代さんのお家の桜を毎年見られたんですか?』
と私が話の流れでそう聞くと
『塀の外からは毎年見てたけど、中で見たのは一回だけね。』
と高松さんは答えた。
『え?』
と聞き返した私に
『ええ、だから言ったでしょ、私、彼女と仲良くなかったのよ〜。』
と高松さんが言ったので私は再び苦笑いした。高松さんは続けて語りだした。
『何年か前にね、千代さんの旦那さんが本当に急に亡くなったの。ちょうど4月の頭でね、私お隣だから、さすがに手伝えることないかなとエプロン片手に訪ねたのよ。するとね、もうたくさんの人が家の中をバタバタしてたのね。』
『そんな中、千代さんを探したら、彼女、縁側に座って桜を見てたの、一人で。私が千代さん、と、声をかけると千代さんはね、私を見てこういぅたのよ。』
高松さんはふっと微笑んで、話を続けた。
『『やっと来てくれたわね』って。それまで毎年、千代さんは『土日、うちに寄ってね。桜が今見頃だから、お茶飲みにいらして。』と、何十年もの間、何十回も言ってくれてたんだけど、働いてる私は土日は寝てたいし、やることがあるし、桜は職場の花見でうんざりしてて、その上、休日にあのうるさいご近所さんに気疲れなんてね。千代さんとあの日、特に何を話した訳じゃなかったんだけど、あれだけ毎年来て来ていうだけあって、あれは本当に、立派な桜だったわ。』
そこまで語ると高松さんは縁石から立ち上がって腰をトントンと2、3回叩き、座って畑の草をむしり始めた。私もスナップエンドウをまた脇におき、高松さんに続いて草をむしった。
『私の夫も2ヶ月前に亡くなったの。』
と高松さんが言った。
『そうだったんですか。』
と返しながら、そんなに最近のことだったんだ、と私は思った。慌てた様子で高松さんは
『あ、でもずっと寝たきりで、入院してたから、覚悟は出来てたのよ。むしろね、亡くなったほうが近くにいるみたいで寂しくないくらいなのよ。』
と言った。この方はいつも言葉を受け取る側のことを考えて話す方なんだな、と思った。
『本当に、人間って経験しないとわからないことばっかりね。』
高松さんは雑草を抜きながら言った。
『えっ?』
私が顔をあげると高松さんは続けて
『旦那さんが亡くなってから、千代さんしばらくここに一人で暮らしてたの。お子さん達が土日に遊びに来たりして。私だから、千代さんは大丈夫だと思ってたのよ。』
『次の年の桜が咲く前に、千代さんは娘のところに引っ越すわと挨拶にきてね。私、だからその時『あら良かったじゃない!お孫さんの面倒見て楽しくね。』と声をかけたのよ。彼女変な顔を一瞬したけど、笑ってお元気でね、といったの。』
『でも何ヶ月か経って、近所の余計なことを話す人が教えてくれたの。千代さんはこの家を手放したくなかったんだけど、子ども達が遺産で争うようなことになって、結果ここを出ていくことになったって。』
と言った。そして続けて
『私はずっとね、千代さんは恵まれた人だと思ってた、何にも問題がない。でもね、千代さんが居なくなって、畑に出る短い時間で聞く千代さんの話ですら、随分昔から千代さんには大変な話がたくさんあってね。』
『私は子どもがいないから、職場や親戚やご近所さんに余計な親切や心無い言葉を言われたことがあったから自分ばっかりつらいな~って思ってきたんだけど、どっちにいてもつらかったのかなってね。』
話しながら、高松さんはポケットからビニール袋を出して自分で食べる分であろうのスナップエンドウを摘み始めた。そして手を止めることなく高松さんは
『夫を亡くして、あの時の桜を見てた千代さんのことが少し分かるようにな気になってね。』
と言い、少し間をおいて
『ま、今、千代さんが元気にしてたら良いなと思うわ。』
とやっぱり手を止めずに言った。
草むしりしていた私も立ち上がって伸びをした。何十年ぶりの畑はなかなか腰にきた。
色々あるな本当に、と思った。そしてスナップエンドウを摘む高松さんの背中を見た。色々あるよなとまた思った。
そして少し考えて
『私も畑始めるので、教えて下さい。私、田舎離れて長いんで、大分忘れてるんです。』
と言った。高松さんも少し考えて
『自分の畑で精一杯だから、口だけなら出してもいいわ。』
と微笑んで言った。高松さんのその答えの真意を測りかね、笑いをこらえる私に高松さんが
『何かおかしい?』
と聞いたので、
『私、高松さんと話すまで、ここの土地の人とは仲良くすまい、と誓ってあいさつ回りしてたんです。』
と言うと高松さんは
『あら、あなたそれ大事よ。あなた外者なんだから、私以上に言われるわよ。気をつけなさい。それにここにはたくさん変な人がいるからね。気をつけるのよ。』
と真剣に言った。私が
『そうですよね。はい…』
と返事をする間に、高松さんが家に帰るため再び包丁を片手に持った姿を見て、私は笑いが止まらなくなった。
少し呆れ顔で高松さんは
『まぁ、でもね、どうせ、同じイライラするなら、何かを得る方を選んだほうがいいのかも知れないわね。面倒くさいけどね。』
と言ったあと
『今度、うちに苗をとりに来なさい。』
と包丁を持って歩きながらこちらを振り向かずに言った。
玄関先で高松さんに改めて
『よろしくお願いします。』
と引っ越しの挨拶を渡すと、やっぱりその場で開けて
『こんなにいいタオル!あなた高かったでしょう!あなた無理して!』
と言い、畑から追加でネギを採ってきて
『これも持ってきなさい。』
と渡された。もしかしたらこの土地はもらったプレゼントは目の前で開ける欧米式の文化なの?と思った。
自宅に帰ってから、私は大家さんに電話を入れ、千代さんと連絡が取れるかを聞いてみた。すると、大家さんはなんと今千代さんが住んでいる地域で不動産屋をされていて、千代さんをご存知だった。
ご近所さんがみんな『千代さんがお元気ですか?』って聞いてきたことを伝えて欲しいと言うと、大家さんは、すぐ伝えるよと言ってくれた。昨日からの色々が少し浄化された気がした。
その日の夕食は高松さんからもらったキャベツとスナップエンドウを茹でて、マヨネーズをかけて食べた。懐かしい青っぼい味がして、特にパンパンに張ってるスナップエンドウは格別に美味しかった。
『確かに食べ頃だわ。』
私は独り言ちしつつ、なんとなくそんな気分になって、冷たくしておいたビールをグラスに継ぎ、小皿にスナップエンドウを少し入れて、昨日掃除した仏壇のあった場所に2つをそなえた。
『千代さん…』
と言いかけて、いやいやいやいや生きてるわ!と自分に突っ込み、何にかわからないけどまた手を合わせた。
お風呂に入って高松さんとの会話を反芻し、『あなた無理して!』まで思い出した時だ。私は気が付いてしまった。書記さんがあの時『後に続く人のために特別なことをしないこと』と私に伝えた真意を。高いタオルを渡してしまえば次の人が困るのだと。
昨日に引き続き、私はまた
『あ゛~~~~~〜〜〜〜。』
と叫んだあと、どこにも持っていきようのない恥ずかしさをどうにかしたくて、頭まで湯船に潜った。
湯上りに窓を開けて縁側に座ってみた。もう桜はないけれど、ここで千代さんは高松さんと桜を見たんだなと思った。会ったことはないのに、この家や高松さんの話から、千代さんに少し触れた気がして、千代さんが今、幸せでいてくれたらいいな、と思った。そして千代さんは元気?と聞いた人はみんなここで桜を見たのかな、と思ったりした。
そんなノスタルジックな気分もつかの間、何気なくあたりを見渡すと、目の前の駐車場と狭い道路を挟んだ向かいの家のおじさんと目があった。正確に言うと、窓全開で真っ裸で風呂に入っているおじさんと目があった。
私は口角だけ上げ、会釈をして窓を閉め、カーテンをしめた。
『変な人がたくさんいるからね。』
高松さんの言葉を思い出した。
まだ夫と合流していなかった私は家の周りの鍵を何回も確かめてから、仏壇あった場所にもう一度手を合わせ、その日はその前に布団を敷いて眠った。
(つづく)