行く秋や 博多の帯の 解け易き
夏目漱石
『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『こころ』…言わずと知れた日本を代表する文豪、夏目漱石。
私が最初に漱石の小説を読んだのは小学生の頃。そこからも代表作だけを読んでいて、作品にある恋愛がかなりの確率で三角関係を描いているため、彼の中にある恋愛観のベースはそこにあるのかな、なんて勝手なイメージを持っていました。
さて、月日は経ち、自分が俳句に興味を持つようになって、漱石が多くの俳句を読んでいる俳人であるという側面と出会います。まさか漱石という名前自体が俳句の号(俳句を詠むときに使用する名前)からきていたとは!
そして何と言っても漱石と正岡子規との出会いです。俳句を軸に、互いが心を通わせ、友情を深める様、そして子規の死を挟み、漱石がその後たどった人生は私の心をグッと掴み、漱石と子規の句を読むことに繋がってゆきました。
さて今日の季語のお題は『行く秋』。私は真っ先にこの句が浮かびました。
行く秋や 博多の帯の 解け易き
私は句を読んで、そこから色んな物語を想像するのが好きなのですが、この句を読んだ時、この博多帯が女帯なのか、男帯なのかで、随分物語が変わるなあ~とワクワクしたのです。
というのも、博多帯は糸を編む密度が他のものに比べかなり高いため、一度締めたら緩まない帯と言われており、その昔、刀を持つ武士たちは「帯は博多」と言って博多帯を愛用したというほど、解けにくい帯なわけです。
その博多帯を漱石は『解け易き』と。これはいかに?気になりませんか?
調べてみるとこの句を漱石が読んだのは明治29年(1896年)。ちょうど漱石が熊本県の第五高等学校の講師となり、妻鏡子と結婚した年にあたりました。
この鏡子さん、諸説ありますが、一般的には悪妻や恐妻と言われることが多い人物です。
鏡子さんの人柄ですが「裏表のない、ずけずけものをいう性格」とWikipediaに書かれていました(笑)。お嬢様育ちで家事が不得意、寝坊して朝食を出さないこともよくあったとか。漱石がそんな彼女を見かね、不経済だと叱咤すると
「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、たくさん睡眠をとって、良い心持で家事をするほうが何倍も経済的でしょ!」
と言い返したというエビソードも。今の時代ならともかく、まだ男尊女卑が当たり前だった当時の日本のおいて、鏡子さんがめずらしいタイプの女性だったことは間違いないでしょう。漱石は見合いの席で、その裏表のない彼女に惹かれたといいます。
新婚の漱石が詠んだ、そう考えるとこの句、どういう解釈ができるでしょうか?
もしこの帯が女帯だった場合。新婚の二人、新生活の中でもしかしたら、互いを受け入れ始めた時期だったのかもしれません。うだる様な暑さの熊本の夏が過ぎ、肌を寄せ合うことが自然にできる秋も終わりごろ。互いの心も体もようやくほころんだ様を、固い帯は解け易くなったと表現した。そうならば、新婚さんならではの幸せな句だったのかしらとほっこりした気分になります。
さて男帯だった場合。漱石はこの頃神経症を患っていたとされています。もともと生い立ちの複雑さから、彼の性格はかなりナイーブであったようです。そんな自分とは、育ちも性格も真逆の鏡子さんを選び、彼は結婚した。
鏡子さんののびのびとし、人目を気にしない生き方、良くも悪くもすべてを言葉にしてしまう性格、幼い頃から言葉を飲み込み生きてきた漱石にとって、かなりの衝撃だったことでしょう。
そして家族や愛に対し、頑なに閉じていた漱石の心の内、もしかしたら自らの家庭を持てたことや正反対な鏡子さんの存在は、色んな意味で彼の常識を破壊し、張っていた肩の力が抜けたのではないかな?と想像してしまいました。楽になったという意味でも、太刀打ちできないという意味でも(笑)。
固い、変わらないと思い込んでいたものが、鏡子さんとの出会いでたやすく緩んだことに漱石自身が一番驚いた様子を句にしたためたのかもしれませんね。
子規の句に比べ、漱石の句の言葉は全体的に柔らかくウィットに富んだ表現があるなと私は感じることが多いです。もしかしたらそれは、朗らかに明け透けにものを言う、鏡子さんの影響があったのかもしれません。
さてたくさん書きましたが、以上は全て私の妄想です(笑)。そして漱石は亡くなっていますから、正解もわかりません。皆さんはどちらの解釈がお好きでしたか?また違った皆さんの解釈もぜひ聞いてみたいです。
秋の夜長、色んな句を読みながら、ムフフと想像する。楽しいですよ~。